白い指が白と黒の狭間を彷徨う。

 

ふわり、野の花でも愛でるように黒白(コクビャク)の上に細い指が降り立ち、そして次の瞬間しなやかで強靭な鋼を思わせる勢いで彼女の指が黒白を叩きのめした。

 

凄まじい勢いで黒白の上を踊る指。乱れなく乱れ狂うという矛盾。

乱舞から生み出される音律。彼女が鍵盤を弾く力強さよりも数倍激しく鼓膜を打ち、それよりもさらに数倍激しく胸を打つ。

 

 

『わたしは鍵をもっている。

 

わたしは鍵を操れる。

 

黒い鍵と、白い鍵。』

 

 

確か彼女はそう言っていた。

漆塗りのように艶めく鍵盤楽器には、彼女のための、彼女のためだけの鍵が幾つも埋め込まれている。

鍵盤。黒鍵。白鍵。

 

鍵。彼女はそれを使って、幽玄の彼方から何かを音として取り出すのだろう。そうでなければ、この音の説明がつかない。

こんな、胸を掻き乱されるような音。

 

彼女から音が産まれ音から旋律が生まれ旋律から曲が生まれ曲から彼女が生まれそしてまた彼女が音を生む。終わり無き連鎖。

 

僕は感涙に咽ぶ。

嗚呼、彼女は此処にいると。

彼女に終わりは無いと。終わりの先にすら、彼女は居たと。

 

美しいという言葉等では到底表せない旋律。それは彼女自身が“美しい”等という言葉では表しきれないのと同じ。旋律の中に彼女自身が居るのだから。

 

そう、彼女は此処にいる。

 

例えその瞳が僕を映さなくとも、その耳が僕の声を聴かなくても、その唇がもはや一切の音を零さずとも、いかにその心が失われたかのように見えても!

 

白い肌。黒い髪。黒い服。白い指。黒と白の鍵盤。

あるいはもはや彼女自身が鍵であるのかも知れない。

 

 

産み出される乱れなき旋律。

 

ふと。

 

それが、歪みを帯びたように感じられたのは気の所為だろうか?

 

 

――――――・・・洋琴(ピアノ)の調律をしなければなるまい。

 

その全てで“彼女”を映していた脳内に、ぽつり、やけに冷静な呟きが生まれる。僕は変わらず白と黒の狭間を彷徨い続ける彼女を見やる。

彼女が音階を違えるなどありえない。迷いなく踊る指先。けれど、ああ、やはりまた狂った。この上なく正確な指の下で、歪んだ音が生まれる。歪んだ曲が零れる。やめろ、やめてくれ、なぜだ、嗚呼、彼女が歪む!

悲鳴を上げたくなるほどの恐慌に襲われながらも、何故か僕はその場から動けなかった。

彼女の鍵が生み出す歪み、彼女という鍵が産み出す歪み。

その歪みは何処まで広がってゆくのか。嗚呼、そんなもの決まっている、彼女には終わりはないのだから。

 

狂って仕舞った洋琴(ピアノ)を叩き壊したい衝動、歪んだ音に耳を塞ぎたい恐慌、彼女を求める熱情。全てが合わさって、僕まで狂ってしまいそうだ。

 

「 “   ”・・・! 」

 

僕は彼女の名を呼んだ。

彼女に聴こえるはずもない。けれど、呼んだ。そして彼女はやはり手を止めず眼を動かさず肩を震わせなかった。

 

流れる旋律は止まらない。彼女は止まらない。ただ歪みだけを加速させて。

 

 

あるいは狂っているのは弾き手である彼女自身であるのか、聴き手である僕自身なのか。

 

そんな僕の最後の呟きも、やがて全て音律(カノジョ)の中に溶け消えて――――――――・・・